『みやぎ長野県人会』

平成21年1月18日の新年会の様子です。

平成19年6月11日の創立百周年式典・祝賀会の様子です。

(以下は新しい情報が上部に書かれています。)


 ▲平成17年6月27日 長野県人会・定時総会(第99回)▲

 勾当台会館において総会が開かれました。近づく100周年記念総会について、企画実行委員会の体制が作られ、3月15日に行われた委員会の報告がありました。懇親会では、野沢菜、五平餅が各テーブルに配られ、皆でなつかしく、味わいました。野沢菜も五平餅も実は仙台で入手は可能なのですが、役員が特別に長野県の店から取り寄せるだけあって、本物の味でした。長野県に多い姓、顔なじみになったなつかしい会員に会うと、なんだか郷里に帰ったような感じがするのです。そしてあの長〜い「信濃野の国」を総会と懇親会で二回も歌ったのです。



 ▲平成17年1月30日 長野県人会・新年会のご報告▲

 1)勾当台会館において新年会が行われました。新人会員4人を含め57人の参加がありました。いつものとおり、開会の言葉、国旗・県旗への敬礼、物故会員に対する黙祷、五誓の朗読のあと、県歌「信濃の国」の斉唱をしました。
 
 そのあと、会長挨拶、100周年行事企画と記念誌編集について、担当委員長の提案などがあり、続いて岩手大学名誉教授・横田清会員による「ブルーベリーの魅力を語る」という講演がありました。(新年会にも大学名誉教授を招いて学問を忘れないという長野県人の向学心に、我ながら感心します。これにつれあいが「ついて行けない」と言うことが多いので、長野県出身者のつれあいが望ましいのですが、そうすると今度は食堂や寝室も勉学の場となる可能性がありますのでご注意下さい。)続いて部屋を変えて懇親会に移り、午前11時に始まった新年会は午後3時ころ終了となりました。

 いろいろ紹介したいことはあるのですが、今日は、依田会長の挨拶から、みやぎ長野県人会の発祥について紹介をします。


 2)みやぎ長野県人会の誕生ー長野県と宮城県のかかわりー1

 再来年の2007年が100周年ということは、県人会は1906年に結成されたということです。前年の1905年つまり明治38年に日露戦争が終結しました。この年は東北地方が大凶作だったそうです。宮城県では産業育成が計られ、翌年、長野県の片倉製糸株式会社が仙台市東五番町に支社を作りました。同じ年、東北帝国大学も作られたそうです。長野県から片倉製糸の社員が来て、すぐ長野県人会ができたそうです。そこに東北帝国大学にいた長野県出身者が合流して、県人会がその後、連綿と続いているという訳です。


 《過去の行事》   

 ▲平成15年・新年会のスナップ写真▲

  仙台駅東口近くの大慶ビル(イーストパスタ)で2月2日に行われました。毎年、新年会では、会員のだれかが講演をします。今回は依田副会長の「支倉常長探訪記」と題するお話がありました。依田さんは勤めておられた放送局の特別番組の制作に携わっておられたとのこと。配布資料は3枚のヨーロッパ地図で、それには一行の旅行行程が記されていました。現地の資料の基づいたすばらしいお話でした。
 下左の写真は懇親会での女性参加者の合唱です。たしか「たれか故郷を思わざる」でした。下右の写真は野沢菜。

 


 


 上の写真は五平餅です。地方によって餅の形や串の材質や形が違います。焼き方はまず軽く素焼きをして、タレをつけ、もう一度焼いて食べます。(食べ方は上下の顎を開いたり閉じたりして、噛みながら味わいます。歯のない方は、固形物でのどを詰まらせないよう、かけ声をかけて一気に飲み込んで下さい。詰まらせると新年の最初の新聞に出て、五平餅の名声が下がってしまいます。)


 ▲平成13年・第95回定時総会▲
 
     日時:平成13年6月10日、11時から
     場所:ホテルメトロポリタン

 定時総会では、活動の方針や予定など、沢山の議題が話し合われました。宮城国体に参加する長野県代表選手を応援するための旗を作ること、全国障害者スポーツ大会にも同様の応援をすること。県人会の紹介を新聞に載せてもらうこと。若い会員を募るため、まず大学生を安い参加費で招待すること。役員からさまざまな提案がなされました。


 ▲平成13年1月27日(土)・新年会▲
 
     日時:平成13年1月27日(土)15時から
     場所:ホテルメトロポリタン 3階
     受付開始:14時から
     講演:「口腔ケアの周辺」高見沢常任理事
     懇親会:16時半から
     (参加者は55名でした。)


▲長野県歌「信濃の国」▲
    ※参考@長野県公式HP(長野県庁)
    ※参考A右下は合唱と動画です。あわてないで、三角ボタンを押して少し待って下さい。すぐ始まります。


   
一、 信濃の国は十州に 境(さかい)連(つら)ぬる国にして
聳(そび)ゆる山はいや高く 流るる川はいや早し
松本伊那佐久善光寺 四つの平は肥沃(ひよく)の地
海こそなけれ物さわに 万(よろず)足らわぬ事ぞなき

(私注)  歌詞からは、地形的理由でバラバラになりがちな県民をどうにか統合しようとする気持ちがひしひしと伝わってきます。
 「海はなくても平気です。何でも満ち足りています」という部分には、長野県人に負けず嫌いの精神を育てようとする教育的な気持ちが込められているような気がします。「ボロは着てても心は錦」なんていう歌詞を地でいく人が長野県人に多いのはこの歌のせいでしょう。もちろん、私のように、「ボロを着てて、心もボロ」というような人も多くいますが。
 現実には貧しいのに、「肥沃の地」に「よろず足りて」生活していると思い込んで、この歌を歌っていた子供の頃が切なく、なつかしいのです。この歌に対するそのなつかしさ、切なさが、長野県人会をまとめていると思います。

二、 四方(よも)に聳(そび)ゆる山々は 御嶽(おんたけ)乗鞍駒ヶ岳
浅間はことに活火山 いずれも国の鎮(しず)めなり
流れ淀(よど)まずゆく水は 北に犀川千曲川
南に木曽川天竜川 これまた国の固(かた)めなり

(私注)  火山は地震の発生源です。流れの速い川は、大雨のときには鉄砲水になり、道路を寸断し、下流に被害をもたらします。それを「鎮め」とか、「固め」とか言うのは、詭弁としか言えないと、今になって思います。しかし子供の頃には、先生が怖かったのか、まさか歌詞が間違っているとは、想像もできなかったのか、多分、真実は、歌詞の内容など考えずに歌っていたので、あえて詭弁に抗議しませんでした。そして詭弁を詭弁と思わない、理屈ずきの人間に育ってしまいました。

三、 木曽の谷には真木(まき)茂り 諏訪の湖(うみ)には魚多し
民のかぜぎも豊かにて 五穀の実らぬ里やある
しかのみならず桑とりて 蚕(こ)飼いの業(わざ)の打ちひらけ
細きよすがも軽からぬ 国の命を繋(つな)ぐなり

(私注)  諏訪湖でとれる魚というと、ワカサギでしょう。歌詞では魚の種類が多いのか、ワカザギの数が多いのかボカシて、他県のことをまだ知らない子供に歌わせています。
 小生が小さい頃は、電気冷蔵庫はまだ普及しておらず、夏には、魚屋で売っていたのは「塩イカ」と「イシモチの粕漬け」くらいでした。18才のとき、宮城県に来て、魚屋で売られている魚の種類が多いのと、店先で焼きながら売っていいる魚がうまいのに驚いたことを覚えています。それまでは夏の魚類は塩イカとイシモチくらいしか存在しないと思っていたので、この歌詞に疑問をもたなかったのです。
 また、鮎は天竜川にしかいない思っていたし、椎茸も長野県でしかとれなくて、他の県でとれたとしても、長野県の山で一番多く取れ、一番、味がいいと思っていました。
 宮城県のように、米が多量に収穫できる広々とした地域と違い、長野県にはダンダン畑や斜面の荒れ地が多いのです。米という一穀が多く獲れないことを、アワやヒエなど「五穀が実る」と言い換えるところなど、ヤセガマンという県民性をかくして養っていただいたと、涙が流れるほど有り難い県歌なのです。
 しかのみならず、養蚕を賛歌した部分など、実に見事な表現で、文学的感覚をかくして養っていただいたと、これも感激のあまり、涙が「流れ淀まず」流れます。

四、 尋ねまほしき園原や 旅のやどりの寝覚(ねざめ)の床
木曽の桟(かけはし)かけし世も 心してゆけ久米路橋(くめじばし)
くる人多き筑摩の湯 月の名に立つ姨捨山
しるき名所と風雅士(みやぎお)が 詩歌に詠みてぞ伝えたる

(私注)  四番になるとメロディが突然、変わります。それまでは、勇ましい歌い出しが続くので、たいがい、静かな歌い出しをする多くの生徒の中に、数人の生徒が、勇ましい声をはり上げます。そして恥ずかしさに照れる生徒、クスクスという笑う生徒。歌に自信のある先生が、皆をリードしてそんな間違いをやったものなら、それこそ生徒は大喜びでした。歌う生徒と先生の融和を計り、ここまで秘策を練って作られたた県歌は日本広しと言えども、ないでしょう。かく言う小生もよく間違った方です。

五、 旭将軍義仲も 仁科の五郎信盛も
春台太宰先生も 象山(ぞうざん)佐久間先生も
皆この国の人にして 文武の誉(ほまれ)たぐいなく
山と聳えて世に仰ぎ 川と流れて名は尽きず

(私注)  長野県出身者に会ったら、「仁科の五郎信盛って人、知ってる?」と聞いてみて下さい。「太宰春台って人」でも結構です。多分、「知ってるよ」と答えるでしょう。そしたら次ぎに「で、どういう人なの?」とたたみかけて聞いて下さい。キチンと答えられたら、尊敬に値する長野県人でしょう。
 しかしあまりかんばしくない人物も歌に取り上げざるを得ないところに、作詞者として苦しいところもあったでしょうが、最後に、「山は確かに聳え、川は確かに流れているではないか」と、ついに何となく納得させてしまいます。長野県人の詭弁技術の源がここにあります。

六、 吾妻はやとし日本武(やまとたけ) 嘆きたまいし碓井山
穿つトンネル二十六 夢にも聞こゆる汽車の道
みち一筋(ひとすじ)学びなば 昔の人にや劣るべき
古来山河の秀でたる 国は偉人の出る習い

(私注)  みち一筋に学べば偉人になれる──そんな幻想をいだいて、いつの間にか「専門バカ」になるのです。しかし専門バカになるくらいの世間知らずでないと、偉人とは言えない。世間知らずと言われても、あの雪をいただいた西駒ヶ岳の神々しさ、その神々しさを知らない都会人に何が分かるか。一歩ゆずって、自分が偉大でなくても、長野県のあのアルプスの神々しさ、それは偉大だ。これが長野県人の誇りなのです。「え、北アルプスに何度も登ったことがあるって?・・・でもオレらの登山とあんた方の登山とは基本的に違うちゅーの。下駄でしょっちゅう登ったの、ふもとだけど、オレらは。(つまりは、町も村も山の斜面にあるということ。)」
 

 


 

          ▲みやぎ長野県人会役員名簿▲  H16年4月〜18年3月

役  名 氏    名 出  身
顧問 池田文明  飯田市
唐沢好美  飯田市
相談役 武井一安  松本市
両角繁博  更埴市
久保田昭  飯田市
名誉会長 金井  力  佐久市
会長 依田  掌* 佐久町
副会長 野神  修  高森町
吉池昭雄  千曲市
羽場  忍* 飯田市
事務局長 山口一人* 長門町
会計幹事 津田泰義  松本市
藤森淳一  諏訪市
会計監査 仲村容言  長野市
青木忠勝* 長野市
常任理事 高見澤建雄  川上村
加藤純二  飯田市
有賀岩雄  富士見町
後沢三郎  高森町
松沢節子  松本市
坂口  稔* 諏訪市
幹事 柳沢男一  茅野市
川上賢連  飯田市
三浦邦夫  長野市
岡村郁男  梓川村
中村  正  信濃町
中島幹夫  岡谷市
奈良芳男  上松市
関  高  飯田市
田下泰雄* 木曽福島町
(*=新任)



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